2300年前に記された中国の地理書、山海経には「ふぐを食べると死ぬ」との記載があります。日本でも縄文時代の貝塚からふぐの歯骨が出土したことから、ふぐは縄文時代から漁獲されていたことがわかります。また、平安時代の本草書である本草和名にも「布久」という名称でふぐが登場します。
文禄・慶長の役により九州に集結した武士の間で、ふぐ中毒で死亡するものが相次ぎました。このため豊臣秀吉が「河豚食禁止の令」を発布しました。その後江戸時代も武士に対してはふぐ食を禁じる藩が多く(特に長州藩は厳しく)、ふぐ食が発覚した場合には家禄没収などの厳しい処分が下されました。
しかし江戸時代は魚の食文化が発達した時代でもあり、1643年(江戸時代)に記された料理物語の中に、ふぐ調理法として「ふぐとう汁(ふぐ汁)」という料理法が記されております。
「ふぐとう汁は皮を剥ぎ、腸(わた)を捨て、腹にある隠し肝(肝臓)をよく取りて、血気のなきまでよく洗いきりて、先づ濁酒(どぶ)につけて置く、清酒も入れ候。さて下地は中味噌より少し薄くして煮え立ち候て魚を入、一泡にて濁酒をさし、塩加減吸い合わせいだし候なり、吸口は大蒜(にんにく)茄子(なすび)」云々
また松尾芭蕉や小林一茶は河豚料理を季語にした俳句も残しております。(右図)
厳しいふぐ食の取締りが行われていたため、ふぐが一般的に食べられるようになったのは明治時代に入って春帆楼で伊藤博文がふぐを食し、ふぐ食が解禁されて以降となります。